私はかりあげクンになれなかった

 先日のぐわぐわ団さんの記事を見ていて思い出しました。

gwgw.hatenablog.com

 そう、かつて私はかりあげクン(以下「かりあげ」)になりたかった、しかし、なれなかった。現実はそう甘くなかったのであります。
 若かった頃の私はかりあげに憧れました。課長に「オーイ、かりあげー」などと呼ばれ、誰から慕われるということもなく、しかし自分の気の向くままに好き勝手なことばかりしている―――これこそ理想の生き方なのではないかと思いました。だいたい誰もが島耕作になどなれるわけがありません。あんなのはどう見ても嘘っぱちで、とても感情移入などできそうにありません。私にとってかりあげこそサラリーマンの理想像だったのです。
 そう思った私はまず勉強に励みました。ただのバカではかりあげになれないのは明白でしたし、進学して社会での選択肢を広げること、そして安定していて個人に対する理解のある職場を得ること、これができれば自分もかりあげになれるのではないか、そう思ったのです。
 そうして潜り込むことができた職場、しかしそれも決して理想郷ではありませんでした。それなりに安定していたのは確かなのですが、同時に中途半端に年功序列的な風土が残っていて、さしたる功績がなくともそのうち中間的な役職に引き上げられてしまうという現実があったのです。これは大きな誤算でした。
 まあ、それだけならまだ普通の「のんびりした職場」で済んだのかもしれません。しかしここにも成果主義やら実績主義やらが押し寄せてきたのです。このツールをうまく使ってかりあげ的なポジションが得られるのでは、とも考えましたが、これまた毒にも薬にもならない代物で、ただ資料作成と会議が増えているだけ。IT化で縮小するはずだった管理部門のメシの種になってしまっているのでやめられそうにありません。現場は無用な業務を背負い込み、ただ追いやられるばかりなのです。
 いずれ出世には程遠いのですが、かといってこんなのは全然かりあげではないのです。これからどれほど努力しようと、いや、すればするほど、私はもうかりあげにはなれないのです。現代社会はかりあげという存在を許してくれないらしいのであります。
 かりあげはやはり心の中に生きる幻なのか…そう思いながら、今日も全く見どころのないサラリーマン生活を続けるのであります_ _)